昭和四十八年八月三日 御理解第六十二節
「昔から人もよけれ、我もよけれ人より我が尚よけれと云うて居るが、神信心をしてもわが身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ、神信心も手習いも同じ事。一段一段進んで行くのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
今朝は私御神前で皆さんのことを色々とお願いさして頂きよりましたら、カラーと云うよりかカーキ色一色、云うなら私の好きな色と云うか、私の云うならば私好みと申しましょうか、そのカーキ色で皆さんがね、一生懸命お茶の稽古をなさっておるところを頂いた。 お茶のお点前をしておる。ふくさ裁きをしている人もある。茶筅さばきをしている人もある。いわゆるお茶の行儀作法と云うものをして、それがみんなカラーなんです。カラーと云うてもカーキ色一色のそういう様子を御心眼に頂かせて貰うて、六十三節を頂いとりますから、人より我は尚良けれ、人より我は尚良けれと云うておろうが、神信心して我が身の上におかげを受けてとこう仰りよる。
ですからこれは私自身がおかげを受けておること、云うならばしかもそれは私流儀であると云うこと。
お茶にも様々な流儀があります。裏とか表とかね、と云う風にあります様に、此処には合楽流儀云うなら大坪流と云うのがある。
しかもそれには私の好みまでついている。私好みの云うならば信心である。そこでここで信心の稽古をなさる方、だからここにはやっぱり信心の稽古に來るところと仰るから、例えばお茶の稽古に行く人が本当にお茶の手ほどきを師匠に受けるように、お花の稽古をしておる人がお花の稽古をしながら他の事どんしよったっちゃ、いっちょん稽古にならん。やっぱり花を持って行ってしかもその活け方、その性質また色々の
粟の穂のこと小さいちょっとした草がありましょう。あれは何とかいう草でしょうか。それがもう肥しの効いちから隆々としてるとですもん。そして如何にもこう、何と云うのですか実意丁寧の様に相手はしてあるばってん、それは粟でもなければ稲穂でもない、けど雑草の毛虫のごとあるとのついとるとがあるでっしょうが、あれです、あの草です。それが粟の穂にごと一寸くぐんでおるけれども、もう雑草そのままです。その人はだいたいよい人なんですけど、そのことに関してはもう心を夜しゃのごとなしてしまっとる。それこそもう雑草が肥料の効いてもう黒とした、それでこれは相手がひとつ取る気になって相手が取らなければ話にはならんばいと云うてお取次さして頂いたことでした。そこでならさん日頃信心の稽古させて頂いとる私ならどうするじゃろうか。私流と云うところをひとつここでいよいよ頂かんならんところじゃろうとこう云うこと。
もう一家中がそのことの為にもう真っ黒な思いでそれでもやっぱりおかげ受けんならんから一家中が一生懸命そのことをお願いしている訳です。
人間関係と云うものはそれで本当に大事にしなければ本当に恐ろしいと思いました。しかしこういう事になって來るのも元々はあんた達に原因が在るんだと、元の時点に返って詫びていかにゃいかんなあとこう云う問題が起こると云うこと。それはもうお話をするならそんなことが本なごっちゃろうかと云う位に進展しとるんです。
成程人間関係が難儀の中で一番に上げられる位じゃが、成程こんがらかったらこげんもなるもんじゃろうかと云う様な事なんです。
そしたらそのことを頂いたもんですから、又そこに下がってから御祈念しよりました。そしたらはっと云うてから何か思い付いたと云うことでですね、やって来ました。先生今朝からこういうお夢を頂いとりましたという夢がどういうお夢かと云うと、石井喜代司さんのお夢を頂いとる。そしてその相手の人にですね、昆虫の標本を造るときに針で刺すでしょう、感覚的にも教導を受ける訳なんです。ところが此処には信心の稽古に來るところと、それは成程初めから稽古に來る人はありません。それは何事か願いごとかお伺いごとがあって初めて御神縁を頂くと云う人が殆どであります。
けれども此処ではお取次を願うと必ずお取次を頂いて帰らんならん仕組みになっておる。お取次を願うたらお取次を頂いて帰る。自分の思いの丈を神様に申し上げたら神様の思いを皆さんにお伝えをしてゆく。そうする内にははあ金光様の御信心とは病気治しや災難避けの神じゃないなあ、これは心直しの神じゃと四神様が仰る様に心治しと云うても直す流儀と云うものがです、心直しそのことが信心だと金光様の。
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昨日、或方が人間関係のもうどうにもこうにもならん難儀な問題を私が午後の奉仕の時でした、熱心に信心も出来ておる。ですから、こういうときに例えば我流というものを体得しとったらです、それは深刻な問題でもなからなければ困った問題でもないのである。いや今度の問題は、今度のはこれをいっちょ体得したら素晴らしい世界が開けるぞと楽しい様な感じの問題なんですけれども、その人とり又は信心の無い者から見たらそりゃあもう大変難儀な問題と思うのです。すぐ四時の御祈念になりましたから、その人のことをお願いさせて頂いた。そしたらその対立している人のお知らせを頂きますのにお参りして来たその人の菊の花を頂いた。その菊の花が可憐なチュウリップの花に、そのことを信心でどうぞおかげ頂きたいと云う。また相手に対する思いやりなんか仲々それこそ可愛らしいことを思うちゃ居る、信心頂いとるから。
その相手の方は今、夏草、稗じゃない、云うならば譲ってしまう。だから師匠の資格と云うですかね、教えてよい資格、もう一生懸命徹頭徹尾親先生の真似して難儀の中に修行しとる人があります。その人の事を私が頂くときにはですね、これはね、只お茶の稽古に通って来よる、例えば嫁入り道具、只好きだからと云うて茶の湯に通うて来よる。只一通り覚えると云うのではなくてこれは、云うならば教えるだけの資格のあるものを、いわゆるものです。
云うなら私がその大坪流の家元であるならばです、その人にも云うならその人に教師としての資格を与えるために心から根からの私の流儀を徹頭徹尾伝えておかねばならんと云うお知らせを頂いたところもある。
皆さんの場合、自分で胸に手を当ててみてです、自分は只お茶の稽古に通うて居ってもうこの位に手際ようやれる様になったとか、又は自分は本当に親先生のそれこそお許しを頂いて看板の一つもかけられる位なおかげを願うておられる方達はそういうところかも知れないけれども、こがしこ此処に通うて来よるけれども、なら本当に稽古しようとは思うて居ない。いや話は聞きよっても稽古は一つもしよらんと云う人達が実を云うたら多いのじゃないでしょうか。今私が昨日お取次させて頂いた人も、もう合楽に一番初めからご縁を頂いとるとですから、もう二十五、六年の信心なんです。そしてなら、私の言うことでもしたりすることでも、見たり聞いたりしとることでも実際の稽古をしようと思うとらんから、そういう問題に直面したときにです、本なごて家の中が真暗うなって仕舞う。本当に一家中が一家心中した方がましと云うことになって來る。
それを私が見たらもうそれこそ、嬉しいごたる問題、もしこれが石井喜代司さんならば、それこそ相手の体に刺さっとるじかじかまで取ってやる位だろう。私はそれを頂いて私は安心しました。そしてその昆虫の針がその人の体にいっぱい刺さっておるところを頂いた。そしてその方が一本一本こうやってやあ痛かったろうと云うて抜いてやりよるところを頂いた。もうそれこそ切らば突こう人間関係の中にあってそれでもです、相手の立場になったら、そういうもうじかじかする中に相手があるわけなんです。
喜代司さんを頂いたと云うことは、もし相手が石井喜代司さんであったらもうにこにこでこの問題に取り組むじゃろうと、これが石井喜代司さんならば、この次にはどげなおかげ頂くじゃろうかと思うてしれしれとこの問題に取り組むじゃろうと、それをあんた達は一家心中しようごたる難儀を感じて居る、そのために。
だから、如何に日頃いわば石井喜代司さんの信心なんかは私のほんの一部の流儀なんです、ね。皆さんが御承知の通りです。馬鹿と阿呆で道を開けと云うか、もうとにかく腹掻いたら馬鹿らしかと云う流儀なんです。それがどういうことであろうが、しかも喜代司さんの場合なんか、相手に刺さっとるそりゃじゃかじかしゅと云うて一本一本抜いてやる様なゆとりがあるです。本当に私の流儀を本気で頂いとりゃそういう時にです、もう素晴らしい徳と力を表すことが出来るです。それを自分の事になると話はもう十年も二十年も聞いて居ながら、その問題に直面するともう、その問題の中に巻き込まれてしもうて悩んで居る、苦しんでおる。如何にここには信心の稽古にと仰るが稽古に通うて居ないかと云うことが分かるわけです。
云うなら、私流の信心をです、頂いていないかと云うことが分かる。カーキ色だけではあるけれどもです、カーキ色のカラーの雰囲気の中でです、一生懸命皆さんがお茶の稽古をなさって居られる。それはまだ或人のところになりましたらね、これは私の流儀をもう本当に一通りのことを覚えると云うことはさほどに難しいことではない。覚えとけば、例えば様々の難儀と思う問題に直面したときにです、こんなに手際よう裁いて行けれる。しかもそういう度におかげが受けられると云う流儀を皆さんに私がお伝えしている訳です。毎日本気で皆さんね、此処には稽古に通うて來るところだと云う根性を持たなければ駄目ですよ。
このおかげは頂かんならんけん参りよるとじゃ何十年たったっちゃ は開かんです。それは初めはそうです。おかげは頂かんならんからです。
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昨日、安東さんがお礼に出て見えてから、もうそれこそ眼に涙を浮かべてからお届けをなさいました。
娘婿である嘉朗さんのことをお届けされるんです。それがその事ではないのです。家内があちらにお手伝いに行っとりました。もうあの晩仮死状態になってしまっておる。そういう中におちらの秋永兄弟達の神様への向い方のその凄まじいと云うかね、その祈念力と云うか、もう私は驚いて仕舞うたと。
もう本当に驚いて仕舞うた。程あれだけの信心を親先生から兄弟の方達がああいうときに直面して、ああいう態度で居れると云うことは素晴らしいというて、その感動をお父さんに話された。お父さんその事も感動だったけれども、ああほんなごてこれは病人の死ぬるとか生きるとかそんな事だけじゃないぞと、これは俺達の商売の上に次々と難儀な問題が起きて來るが、こういう問題でもそういう姿勢で神様に向こうたらおかげにならんことはなかろうねと申しましたと云うお届けがありました。
秋永の兄弟が嘉朗さんのことを嘉朗さんの御神前に向かうて、もう神様がそれしこあんたの上に働いてござることを今聞かせて頂いたらです、これはその気になればおかげになるばいとはなしてやりました。本気で稽古をする気になんなさい、いわば喜代司さん流を一つ覚えなさい。腹立てちゃ馬鹿らしか。しかもそこを腹を立てんで頂くおかげの方が素晴らしか。だからしれしれじゃん、にこにこしゅうごとある。
信心でおかげ頂かねばと云うその心根はね、可愛らしい事ではあるけれどもです、日頃稽古をしているその稽古にそういう問題に稽古にもの言わせることをようしとらん。
如何に稽古をしとらんか。只通うとるだけで、こうやって見とるだけのこと。実際に一つふくさ裁き、茶筅の握り方、茶碗の洗い方一つの上にも稽古すれば馬鹿でも分かるごとあるのが信心です。
だから私は日々起きて來る生活の様々な問題をです、朝に皆さんお参りされるのですから、朝の御理解は今日はこういう風に習うたと云う風にです、それを活用してです、稽古して行かなかったら、信心はいつまで経っても勿論にわかに先生にはなれませんけれども、信心も手習いも同じ事、一段一段上って行くと云うことがないのです。もう二十年も信心しとりますと、例えば合楽で云うてです、ならそこでお茶一服立ててみて下さいと云うたら、まだ茶筅の持ち方さえようと考えとらない人があるんじゃないでしょうか。
ここに参って來るのですから、そのお茶の雰囲気とか信心の雰囲気とかそういうものは成程有難いとか、よいなとか分かってるだろうけれども、自分が稽古をしようと云う気になってない。
ここには信心の稽古に來るところ。しかもどういうところにかと云うと、師匠好みに師匠の流儀をです、体得する一通りのお茶の例えば、先生にならんでも一通りの稽古さして貰えば、それこそ死んで行きよる状態のところへですよ、あの御祈念をしておる秋永一家の信心の姿を見てから、ああ信心ちゃ素晴らしか、祈念もの素晴らしいのには驚いたと、と云うてお母さん手伝いに行ってそれを感動されたことをお父さんに話された。だから、お父さんに話したら、ああそれは有難いことだけれども、俺んところの難儀な問題もその位な親先生の信心を体得しとったら、有難いことだろうねと云うことに私は、私が見た感じはそのことに感動しとられるという感じでした。ああ俺達の信心が足らんと云うことなんです。
如何に親先生の信心をマスターしようとか、体得しようと云うことでなくて、只苦しいから難儀なから参りよるだけだから駄目だと云うことなんです。ね、そういうて安東さんお届けされとりました。だから皆さんの上にもです、いや事はいよいよ生きるか死ぬかと云うときにどういう風に私の信心を表して居るか、日頃の信心に表して居るかと云うことが問題なのです。
今日、六十二節は
私が事実こうしておかげを頂いて居る。家庭の上にも経済の上にも、健康の上にも、様々な面でおかげを頂いて居る。ならこの私流と云うものをです、合楽流と云うものをです、今日はカーキ色のムードの中でお茶の稽古をしとるお知らせを頂いた時に、これは皆さん本気で稽古をすると云うても、ここではどうでも私流儀の稽古をして貰わねば出来ません。同時にです、事に直面したときに、こういう時に親先生はどう裁かれるだろうかと思うて見ねばいかんです。
それこそ二十何年信心しとっても、それは成程問題は大変な問題だけれどもです、例えば合楽の信心のもし稽古をしておったり、本当に一家が真暗うなる様に感じとるわけです。もしこれが石井喜代司さんならばこげんとき腹掻きよるなら、こげなときが一番おかげにの頂き時じゃろうと思うてにこにこしとるときじゃろうと思うです。しかも相手に刺さっとるじかじかを抜いてやるよる様なところをね、頂かなければいけないよと云うて、昨日お取次さして頂いた様にです、お互いも問題に直面したとき、日頃合楽の信心を頂いとるおかげで、こういう時にこんな楽な気持ちで有難い気持ちで過ごせれることが有難い、そういう信心が一段一段積み重ねられて行かねばいけんのですよね。 どうぞ。